彼女は縄目に肌を染め、ファインダーの向こうでライトを浴びている。
私はポーズに注文を付けながら、思い出したようにシャッターを切る。
これが私の愛情表現だと言えば、私は変態と呼ばれるのだろうか。
貧国の幼女を食い物にする、薄汚い資本主義の豚だと呼ばれるのだろうか。
私も最初、年端のゆかぬ子供の緊縛写真を撮ることには抵抗があった。
しかし、これは他ならぬ彼女の要望だったのだ。
彼女は足の立たぬ母と、曾祖父と、二人の弟を食べさせてやらねばならない。
この国で、10代の少女にできる仕事はそう多くはない。
そう、悪名高い「その種」の仕事を除いては…。
だが、彼女は身体を売る商売には踏み切れなかったらしい。
敬謙な信者だというキリストの教えがそうさせるのかも知れない。
元貴族だという誇りがそうさせるのかも知れない。
いずれにせよ、裸体をカメラの前に晒すのは彼女にできる最大限の譲歩だった。
身体を汚さずに収入を得るには、それしか方法が無かったのだ。
そして幼女の緊縛写真が日本向けに高く売れると知ったとき、彼女は迷わず私に縛ってくれと依頼した。
彼女の父親は、日本に働きに出かけたまま帰ってこない。
あるとき、彼女は「父の帰りを待っている」と言ったことがある。
「父さんが帰ってくると信じているかい?」と訊ねたとき、彼女はただ微笑んだだけだった。
そして、私は自分の愚かさを恥じた。
…私はシャッターを切り続ける。
姿勢を変えさせ、脚を広げさせ、時に妖しげな器具を彼女の身体に当てがったりする。
だが、私は彼女に表情を要求しない。
媚びた笑いや、見え透いた喜悦の表情は彼女には無縁のものだ。
ファインダーの向こうから、彼女は独特の表情でこちらを見返している。
それは絶望のようでもあり…軽蔑のようでもあり…羞恥のようでもあり、
無表情のようでさえもある。
マニラ麻のロープが幼い身体に食い込む苦痛は相当なものの筈だが、
彼女はまるで聖女のように静謐な表情をたたえてファインダーの向こうにいる。
彼女の写真集を出すのは、これで4度目か5度目になるだろうか。
端正な顔つきと、清廉な素肌と、神秘的な表情に固定ファンも付いているようだ。
だが、それが必ずしも売り上げを意味するとは限らない。
しょせん、これは殆どの国において非合法の出版物なのだ。
発売直後にはコピー画像が世界を駆け巡り、売り上げは瞬く間にゼロまで落ちてしまう。
ただでさえ中間マージン搾取のひどいこの業界、私の手にはほんの僅かな金額しか戻って来ない。
私はその全額を彼女に渡している。
当初、私はそれを慈善であると考えていた。
だが、やがてそれが偽善に過ぎないことに気が付いた。
これは私の愛情表現なのだ。
愚かで歪んだ、醜く身勝手で薄汚い愛情の表現なのだ。
私は縄とカメラで彼女を愛してやることしかできない。
人は、私を不健全で身勝手で薄汚い変態だと罵るだろう。
しかし、ならば教えて欲しい。私は一体どうすれば良いのだろう?
彼女に金を渡すのか?彼女を嫁に娶るのか?彼女を養女として引き取るのか?
…それは彼女を幸せにするのだろうか?
彼女はこの国に生まれ、この国に育ち、この国で死ぬことを決意している。
私にできることは、ただ彼女に労働の機会を与えてやることだけだ。
その労働が多少奇妙なものであっても、互いに合意の上であれば良いのではないか?
…私はシャッターを切り続ける。
縛られた全裸の聖女が、ファインダーの向こうから私を見返している。
澄んだ湖のような、何もかも見通してしまうような色の瞳が見返している。